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都留市の歴史 原始時代から都留市に人がいた?古代から戦国時代、江戸時代の都留市を解説!
<目次>
- 1. 原始時代の都留市 都留市は千年前からあった?最古の遺物は3万年前!
- 2. 都留市の文化の歴史は戦国時代から?都留市は武田二十四将の小山田氏がつくった城下町だった
- 3. 都留市は昔から物流の拠点だった?都留市の伝統織物とお茶壺道中の歴史から
都留市は山梨県の東部、郡内地方に位置する人口3万人のまち。古くは城下町として栄え、山梨県東部の政治、経済、文化の中心を担ってきました。
原始時代の出土物も多く、3万年前から人の営みがあったことがわかっています。江戸時代には郡内縞(ぐんないじま)をはじめとする絹織物がさかんな土地でもあり、商いの中心地でもありました。
ここではそんな都留市の歴史をご紹介しています。
1. 原始時代の都留市 都留市は千年前からあった?最古の遺物は3万年前!
<都留市の歴史・原始と古代編>
1-1. 3万年前の狩猟生活のようすがわかる都留市の「一杯窪遺跡」
都留市には約30,000年前の遺跡があり、この土地には長い歴史があったことがわかります。
遺跡とは、都留市菅野にある「一杯窪遺跡」(※1)のことです。
この遺跡では打製石器を用いた狩猟生活が営まれていたことがわかる、石器の製作趾が発見されています。
このことから、原始時代の頃から、都留市の土地で人が生活していたことが読み取れます。
一杯窪遺跡がある都留市菅野は、道志山地、標高900mの北西に張り出した尾根の末端部に位置しています。
(遺跡の立地がわかる都留市の地図)
1-2.都留市は石器工場だった?「一杯窪遺跡」で発見されたものを紹介
出土したのは、石核(せっかく)、剥片(はくへん)、斧形石器(おのがたせっき)、削器(そうき)類です。
<出土物の解説>
石核:打製石器の素材のもとになった原石の残り、芯の部分です。
剥片:原石を打ち欠いて作った薄い欠けらのこと。石器を作るときに出る切れ端のようなものです。
斧形石器:石器時代に作られた石器にはいろいろな種類があります。斧形石器はそのひとつ。斧形石器の多くは刃の部分が研磨された磨製石器です。
削器:よく知られたナイフに似た形の石器のことです。
遺跡の周辺には石器に必要な素材が豊富に存在していました。
そこから、一杯窪遺跡が石器を作るためのキャンプサイトだったと考えられています。
1-3. 都留市に国内最大規模の遺跡?都留市の縄文時代、弥生時代の歴史
約1万8千年後、縄文時代にも都留市では人々の営みがあったことが読み取れる遺跡が見つかっています。
代表的な遺跡はおよそ5千年前のものと判断される、「久保地遺跡」や「牛石遺跡」(※2)で、住居跡や祭祀場が発見されています。
なかでも牛石遺跡で見つかった屋外の祭祀場は日本国内でも最大規模の遺構と言われています。
都留市で見つかった当時の祭祀場は配石遺構と呼ばれる作りの遺構です。
配石遺構とは、石を一定の形に並べた遺構のことで、石の大きさは大体が人が人力で運べるサイズのものになっています。
都留市の配石遺構の全体は、直径50m以上の大きな遺跡です。
1-4. 縄文時代でもアクセサリーをつけていた?都留市で出土した耳飾りをつけたハートの土偶
都留市の縄文時代の歴史を示すそのほかの遺跡には、「中谷遺跡」や「尾咲原遺跡」があります。
特に中谷遺跡では耳飾りをつけたハートの土偶が、ほぼ原型をとどめた状態で出土。
当時、耳飾りをつける文化があったことを裏付ける資料として、山梨県の有形文化財の指定を受けています。
土偶の頭部はハートの形をしていて、見た目にも可愛いことから、商品化もされています。
ふるさと納税の返礼品として、レプリカのピンバッチが製作されているので、気になる方はぜひ下記のURLからご覧ください。
(ふるさと納税の返礼品URL)
また、中谷遺跡ではこの遺跡で発見されるまで資料の少なかった清水天王山式と呼ばれる縄文時代晩期の土器が大量に出土しています。
1-5. 都留市、古代のルールの歴史。地方制度の導入で生まれた都留の地名
1200年前ほど、飛鳥時代に入ると、日本では大宝律令が施行されます。
地方制度として、国、郡、郷がおかれ、山梨県でも4つの郡が設置されました。
郡はそれぞれ、山梨、八代、巨麻、 都留と名前をつけられています。
なかでも都留郡には相模、古郡、都留、福地、征茂、多良、賀美の7郷が設けられました。
当時の地方組織の設置に関わる地名などの知識は、『廷喜式』(※3)や『和名類聚抄』(※4)などの資料から読み取れます。
都留という地名は千年以上前から存在していた歴史ある地名だったわけです。
また、同じ時期に都と地方を結ぶ道路が整えられていきます。
これにより、当時の交通制度にのっとって、全国に駅路が制定されました。
現代の山梨県にあたる甲斐国にも駅路が設けられます。
これを当時の人は「甲斐路(かいじ)」と呼びました。
1-6. 都留市、古代の歴史。奈良時代、平安時代の暮らしがわかる遺跡跡を紹介!
710年、京が平城京に遷都した頃、都留市でも奈良時代特有の住居形式で人々が暮らしていたことがわかる遺物が出土しています。
ハートの土偶が出土した遺跡と同じ中谷遺跡と、国内最大規模の配石遺構のあった牛石遺跡から住居跡が発見されました。
時間を進んで、794年ごろ、平安時代の住居跡も発見されています。
平安時代の住居跡は三ノ側遺跡(さんのがわいせき)と鷹の巣遺跡(たかのすいせき)にありました。
それぞれ現在の都留市上谷・田原地区周辺、現在の都留市つる4・5丁目周辺に位置しています。
三ノ側遺跡では、歴史時代の住居址5軒が検出されました。
ほかにも、国内最古の鋳造貨幣である和銅開珎や皇朝十二銭のひとつである富寿神宝などの銭貨、紡錘車・鎌・刀子などの鉄製品などが発見されています。
都留市小形山にある堀ノ内原遺跡では奈良・平安時代の住居址6軒と掘立柱遺構群(※5)と思われる柱穴が発見されています。
掘立柱建物は、古代の人が住んでいた建築物の建築方法です。
歴史の教科書でも紹介されていて、青森県の三内丸山遺跡の紹介で写真を見た人も多いかと思います。
縄文時代から近世まで長い間多くの人が掘立柱建物のやり方で建てられた住居に住んでいました。
1-7. 都留の名前の由来は?万葉集にも登場した都留の地名の由来、歴史
当時、都留の名前で区分けされていた地域は現在の上野原町の西部及び南部が郷域とされています。
郡名になったつるの意味には、川の激流に面する地や、古代朝鮮語の原野などの意味があるといわれているそうです。
平安時代になると、つるの音が鶴を連想させ、遠い甲斐にある延命長寿のめでたい鶴の郡として、和歌に詠まれるようにもなりました。
万葉集の巻14には以下の和歌が掲載されています。
室草の都留の堤に成りぬがに児ろは言へどもいまだ寝なくに
この和歌は「都留川の堤ができ上がったように、二人の仲はすでにできているがごとくあの子はいうが、まだ共寝をしたわけではない」と現代語訳することができます。
また、甲斐国志では、富士北麓から桂川流域にかけて細長く伸びた平坦地が、まるで富士山から伸びた藤蔓のような地形をしているとして、つるという地名が付いたと説明されています。(※6)
1-8. 古代では神奈川県と喧嘩していた?山梨県の県境を決めた争い
797年になると、甲斐国相模国の境界線をめぐる争いがおきました。
当時の山梨県と神奈川県で領土争いがおこなわれたということです。
争いの結果、境界線は都留郡□留村東砥沢(※7)が境界線として指定されました。
この争いに関する記述は『日本後紀』にあります。
都留市は原始・古代からその土地に人が住み、生活を営んでいました。
当時から都留という地名も授かっていたこと、ハートの土偶など、貴重な出土品も数多く発見されたことから、古代から文化が発展していたことが窺えます。
2. 都留市の文化の歴史は戦国時代から?都留市は武田二十四将の小山田氏がつくった城下町だった
<都留市の歴史・中世編>
2-1. 武田信玄の祖先?山梨県に土着していた「甲斐源氏」とは?
もともと山梨県に相当する、甲斐国には甲斐源氏(※8)という諸氏族が土着していました。
甲斐源氏の始祖は源義光とされています。
この源義光が甲斐守として山梨県にやってきたことをきっかけに甲斐源氏の一族が土着、甲府盆地一帯に本拠を築いて繁栄していたと考えられているそうです。
武田氏の祖先が生まれたのは、甲斐源氏に属していた、源義光の子、源義清が甲斐国市河庄に配流されたことにきっかけがあります。
義清の子孫、源信義が現代の山梨県韮崎市に住み着いた際に武田の姓を名乗って武田信義となり、これが甲斐武田氏の初代となったといわれています。
当時の山梨県韮崎市は巨摩郡武田郷と呼ばれていて、その地名にちなんだ姓にしたわけです。
また、もともと甲斐源氏に属していた、源義光の子、源義清が常陸国那珂郡武田郷(現・茨城県ひたちなか市武田)を領有し、その地名から「武田」の姓を名乗りはじめたことが由来しているともいわれています。
2-2. 山梨県は昔から東京とつながりがあった?鎌倉時代の都留市と東京
武田信義が生きていたのは1128年から1186年といわれています。
この数年後、ほぼ同時期に古郡次郎が登場し、山梨県郡内地方の土地を治めます。
古郡次郎は武蔵七党と呼ばれる武士団を祖先とする一族。
当時甲斐国古郡と呼ばれていた、現代の上野原町を本拠としたことで、古郡の姓を名乗るようになったといわれています。
当時から現山梨県と現東京はつながりが多かったようで、古郡氏は『吾妻鏡』(※9)の記述から、本拠地と鎌倉を往来していたことが読み取れます。
その後、承久の乱が1221年に起こり、武田信光5万騎が出発。
この兵のなかに小山田太郎の名前が認められました。
小山田氏は郡内を治めた領主で、その系譜は『郡内研究第2号』(※10)でも確認できます。
郡内小山田氏の初代は小山田有重の子六郎行幸で、祖母(小野孝兼娘)が祖父重弘と結婚する時、持参した都留郡田原の私領を、有重から行幸に相伝され郡内小山田家が誕生したとされる。
引用(https://www.lib.city.tsuru.yamanashi.jp/contents/history/another/tyusei_set.htm)
資料は少ないですが、中世においても郡内の土地に人が住み着いていたことはうかがえます。
2-3. 都留市は経済が栄えた城下町だった?城山、勝山城の歴史
都留市は中世以降、郡内地方の政治・経済・産業の中心として栄えた城下町でした。
都留市の歴史を語る上で欠かせないのが、勝山城趾です。
勝山城は山城です。
山頂は標高571m。「お城山」とも呼ばれています。
『甲斐国志』(※11)によると、浅野長政の家老浅野氏重によって文禄3年(1594)に築城されたと記録されています。
勝山城はその後、戦国時代に小山田氏によって手を加えられたり、豊臣系の大名によって本格的に築城されたりして、長く使われたお城といわれています。
しかし、築城者、築城時期については諸説あり、定かにはなっていません。
例えば、「天正壬午の乱」の際に北条氏によって築城されたとする説もあります。
現代では勝山城の城址が見学できます。
遺構として残っているのは、土塁や堀切など。
また谷村駅前にある「都留市博物館ミュージアム都留」では勝山城の模型が展示されています。
城址見学のあとに自分の想像したお城と照らし合わせて楽しむのもおすすめです。
2-4. 戦国武将武田信玄の活躍。武田信玄ゆかりの地を紹介!
戦国武将として有名な武田信玄は、山梨県の出身です。
生まれたのは甲府市にある積翠寺(※12)と呼ばれるお寺だと言われています。
武田信玄は長野県の戦国武将上杉謙信との戦い、「川中島の戦い」で有名な武将です。
1551年から1561年にかけて、4度の戦争を経て、上杉謙信との信頼を築きました。
1559年までは武田晴信を名乗っていましたが、この年に仏門に入ったことをきっかけに武田信玄を名乗り、この名前が現在にも伝わっています。
ここでは武田信玄ゆかりの土地を紹介しましょう。
①JR甲府の南口駅前
「武田信玄公像」が鎮座しています!
軍配団扇を握る、勇ましい姿をぜひ見に来てください。
地元の人からは、待ち合わせ場所の目印として利用されることも多いようです。
②武田神社
武田信玄公を御祭神として祀っている神社。
大正4年に設立。
浄財によって大正8年には社殿が竣工され、武田信玄の命日とされる4月12日の初の例祭が奉仕されました。
武田信玄のファンなら絶対に一度は訪れる必見の観光地です。
<アクセス>
電車 | JR甲府駅(北口)よりバス利用で約8分 |
自家用車 | 中央自動車道 甲府昭和I.C.より30分程 |
<営業時間>
境内拝観自由(各受付 8:30〜17:00) (宝物殿は9:30〜16:00)
<料金>
大人 | 300円 |
小人 | 150円 |
③恵林寺
武田信玄の菩提寺。
禅寺のなかでもめずらしい、日本有数の大庫裡があります。
庫裡とは仏教寺院における伽藍のひとつで、現代では僧侶の居住する場所を示すことが多いです。
<アクセス>
電車 | JR中央線塩山駅(タクシーで20分ほど) |
バス | JR中央線塩山駅南口から西沢渓谷行、恵林寺前下車 |
<営業時間>
拝観時間 午前8:30~午後4:30(年中無休)
宝物館は、12月~3月の間は毎週木曜日が閉館
<料金>
大人・個人 | 500円 |
大人・団体 | 400円 |
小・中・高校生・個人 | 300円 |
小・中・高校生・団体 | 300円 |
○信玄公宝物館
大人・個人 | 500円 |
大人・団体 | 400円 |
高校生・個人 | 400円 |
高校生・団体 | 300円 |
小・中学生・個人 | 100円 |
小・中学生・団体 | 100円 |
3. 都留市は昔から物流の拠点だった?都留市の伝統織物とお茶壺道中の歴史から
<都留市の歴史・近世編>
3-1. 都留市の歴史 伝統織物のルーツは江戸時代の武将が興した養蚕業にあった?
山梨県都留市で織物の生産がさかんになったルーツには江戸時代の武将がかかわっています。
武将の名前は「秋元泰朝(あきもと やすとも)」氏。寛永10年に、当時谷村藩と呼ばれていた都留市にやってきました。
秋元氏(※13)は藩庁が置かれていた谷村城(谷村陣屋)の城下町の建設に尽力した歴史があります。
また、織物の生産を後押しする絹織奨励を出したのも、秋元氏です。
上州より裁桑・機織の技術を導入し、郡内産業の改良をはかりました。
絹織奨励をだしたのは、秋元家の家臣の貧しさが理由だったそうです。
都留市の歴史を振り返ると、江戸時代の小大名や、東北諸藩の大名家臣たちは家に残された財産(家禄)やお給料(俸禄)だけでは生活がままならない状況にあり、多くが内職や商売をおこなっていたとわかります。
秋元家の家臣も、都留市に移る以前から夏袴地を内職として織っていたと記録に残されています。
秋元家ではもともと織物を商売にする家臣が多かったわけですが、特に織られていたのは絹織物だったそうです。
当時の都留市の歴史を記録した書物(※14)には、「他所の商人が郡内へ絹を調えに来るようになった」と記載されています。
ここから、それだけ都留市で絹織物がさかんに生産されていたことがわかります。
また、時代はあとになりますが、都留市の一部の地域(※15)では織物が年貢の代わりとして納められていた記録が『年貢算用帳名寄(ねんぐさんようちょうなよせ)』という書物に残されています。
また都留市の歴史を記録・編纂した『都留市史』では、当時10俵分の米納と29余両の貨幣がおさめられていた記録から、村人たちが織物を販売して生活していたのではないかと考察されています。
3-2. 江戸の町民にも気に入られていた?都留市の伝統織物「郡内縞」の人気
都留市の伝統織物「郡内縞」は、山梨県内だけでなく、江戸にも流通していました。
当時、「郡内縞」の織物は町民の文化に深く浸透していたことが、さまざまな書物からうかがえます。
例えば、井原西鶴(※16)の「好色一代男」では
…湯殿にかけこみ、こころのせくままにちよと物して出る所を、よしに見付けられて、悲しや様々口がため、郡内縞のおもてを約束するこそきのどくなれ
との記述がありますし、
近松門左衛門(※17)の『心中天の網島』では
…けふちりめんの明日はない夫の命白茶裏。娘のお末が兩面の紅絹の小袖に身を焦がす。これを曲げては勘太郎が手も綿もない袖無しの。羽織もまぜて郡内のしまつして着ぬ浅黄裏。黒羽二重の一張羅定紋丸に蔦の葉の。のきも退かれもせぬ中は内裸でも外錦。男飾りの小袖までさらへて物數十五色。内ばに取つて新銀三百五十匁。
と都留市の伝統織物「郡内縞」について言及しています。
3-3. 江戸時代の都留市は発展していた?都留市の物流の歴史。お茶壺道中で物流の架け橋になった甲州街道
寛永10年(1633年)に谷村藩にやってきた秋元氏が城下町の整備を進めました。
城跡は都留市に残っています。
跡地とされているのは谷村第一小学校と都留市役所のある場所。
もともと、谷村城は戦国時代の武将小田山氏によって建てられたと考えられています。
同じく、都留市のまちを一望できる「城山」にある「勝山城」もまた、小田山氏が築城したと言われています。
勝山城は山城で、一説では勝山城と谷村城(谷村陣屋)の一帯が城下町だった時代もあるそうです。
また、城下町だった都留市は「御茶壺道中」の通り道でもありました。
御茶壺道中とは宇治の茶師に命じて作らせた将軍家直用のお茶を運ぶ「宇治採茶使」の一行のこと。
旧暦の4月頃になると、茶壺を持って江戸を出発し、宇治でお茶を詰めて、甲州街道を通って江戸に戻っていました。
もともと戦国時代にはお茶の文化は広まっていたので、お茶の流通はすでにあったと考えられますが、お茶を運ぶ行列が「御茶壺道中」として権威を持つようになったのは江戸時代に入ってからのことです。(※18)
ズイズイずっころばしの歌詞には「茶壷に追われてトッピンシャン 抜けたらドンドコショ」という一節があります。
御茶壺道中が道を通るときは、大名であっても道を譲らないといけないと言われていたとされるほど、当時の権威は大きなものだったそうです。
それほど大切にされたお茶を運ぶルートにあった甲州街道が、都留市にも通っています。
江戸に近いことから、物流の架け橋として重宝されていたことでしょう。
3-4. 移住者が住みよいまち都留市。よそものに寛容なまちの歴史
織物の流通がさかんであり、御茶壺道中の通り道であった甲州街道が通っていたことからも、都留市が江戸とほかのまちをつなぐ拠点になっていたことがうかがえます。
ものだけでなく、人の往来もきっと多かったでしょう。
山梨県都留市は移住者に寛容なまちと言われます。
都留市がかつて城下町であったこと、よそからお客さんがくることが当たり前だったことが背景にあるのかもしれません。
3-5. 山梨県都留市の歴史を探索!観光おすすめスポットを紹介!
①当時の城下町を再現したまちの景観
山梨県都留市の中心部でもある谷村地区には、当時の城下町を思い起こさせるような、古風ながら、粋なデザインを施した外壁や塀が見られます。
都留市役所や、歩道に設置された街灯などが和風なデザインで統一されています。
ほかにも、長安寺付近、八朔祭の屋台展示庫付近の壁にも和風デザインの塗装が施されました。
また、この黒色の塗装は市内の間伐材の活用を図っています。
「森林環境の保護・育成・活用」と「観光」をマッチングした事業の先駆け的なプロジェクトになりました。
②勝山城
都留市二十一秀峰のひとつでもある「城山」が勝山城跡地になっています。
この山は標高571メートル。
頂上からは都留市街地を一望できます。
春には桜が咲くので、お花見にもおすすめのスポットです。
都留市市役所HPでは勝山城の登山ルートを紹介してくれています。
https://www.city.tsuru.yamanashi.jp/soshiki/sangyo/shoko_t/5/1334.html
おすすめのルートを辿れば、かつての城壁の石垣に使われていたとされる石材の遺構を見ることができます。
別のルートでは、お城を守るためにつくられた内堀内の大きな段差を自分の足で歩いて実感できます。
今回は都留市の歴史を原始時代から遡って紹介しました。
記事のなかで、都留市の歴史を探索できるスポットも紹介しています。
ぜひ一度訪れて、「寛容なまち、都留市」の雰囲気を肌で感じてみてください。
※脚注一覧
※1
県道谷村ー道志線の道坂トンネル手前、道路の切り通しにおいて、表土より10m下においてたまたま赤土取りの際発見された。
※2
牛石遺跡は都留市厚原に立地。
直径50mにおよぶ大環状配石遺構(第3配石区)を中心に、東側(第1配石区)、北側(第2配石区)、西側(第5配石区)の各区で発見された。
第3配石区で発見された大環状配石遺構は、東西南北方向に対応する直径4~5mの規模を有する小サークル状の配石遺構、これらを環状に連結する列石、この列石の内側に沿うように配された組石から構成され、全体の直径は約50mに及ぶ。
※3
『延喜式』は平安時代中期に編纂された古代法典。養老律令(りつりょう)に対する施行細則を集大成している。
三代格式(きゃくしき)(弘仁(こうにん)、貞観(じょうがん)、延喜)のうちほとんど完全な形で残っているのは『延喜式』だけ。
※4
『和名類聚抄』は、日本最古の分類体漢和辞典。
承平5年(935)醍醐天皇の皇女勤子内親王の依頼を受けた源順によって編纂され、略本10巻と広本20巻がある。
※5
掘立柱建物の遺構のあつまり。
掘立柱建物は地面に穴を掘って柱を立てた建物。
竪穴住居(たてあなじゅうきょ)、平地住居、高床倉庫などはこの建築方法で建てられている。
※6
原文
残簡風土記細注二云フ都留郡或ハ連葛トアリ連葛ハ藤蔓ノ如シ富士山ノ尾サキ長ク連リクルヲ云フ。皆つるト訓ズべシ (『甲斐国志』古跡部第十六之上)
※7
都留郡□留村東砥沢とは、井上肇氏が書いた「『日本後紀』巻第五 延暦十六年三月戊子の甲斐・相模二国堺争を定めた件」という論文によると、『日本後紀』には下記のように当時の事件を記述しているが、□の記述があるために場所が特定できないとされている。
原文
「○三月戊子、先是、甲斐・相模二国相争国堺、遣使定甲斐国都留郡
□留村東辺砥沢為両国堺、以西為甲斐国地、以東為相模国地、」
※8
甲斐源氏とは源義光(新羅三郎義光)を祖とする諸家のうち武田氏をはじめとする、甲斐を発祥とする諸氏族の総称。
一族の祖をより遡れば、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族である清和源氏の河内源氏系一門でもある。
※9
鎌倉時代末期に作られた歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記。治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事象を編年体で記録している。
※10
『郡内研究第2号』は小山田了三氏によって発表された資料。
※11
『甲斐国志』は江戸時代に作られた地誌。山梨県で起きたことを記録したもので、全部で124巻もある。『山梨県志』や、平成期の『山梨県史』など近代に行われた編纂事業の先駆といわれている。
※12
境内の巨石から泉が湧き出ていたことで、石水寺と呼ばれていたが、後に積水寺と改める。
現在も信玄公を産んだときに使われたとされる産湯をくんだ井戸や産湯天神が残っている。
※13
都留市にやってきたのは秋元泰朝。
関ケ原の戦いの功により500石を与えられ、慶長8年(1603)家康の上洛に従い、従五位下の但馬守(古来の階級制度にならった階級と役職のこと)に叙せられた(叙せるとは勲章等をもらって褒められることを指します)。
慶長14年(1609)松平正綱、板倉重昌とともに御近習出頭人として家康の側近となる。
家康死後は2代将軍秀忠、3代将軍家光の側近として仕えた。
元和8年〈1622)、父長朝の隠居に伴い1万5千石で家督を継ぎ、寛永10年(1633)1万8千石で甲斐国谷村(現都留市)に移封(大名などを他の領地へ移すこと)となる。
一方、泰朝は総社領内において父長朝の用水事業を受け継ぎ、さらに谷村転封後も領内で用水開削や養蚕の奨励などを勤めた。
寛永19年(1642)没し、谷村城下の泰安寺に葬られるが、のちに光巌寺に改葬された。享年63歳。
※14
都留市立図書館蔵本。1966年に作られた。
※15
朝日馬場村のこと。都留市史通史編P502にて、「明暦元年(1655)朝日馬場村の「年貢算用帳名寄」には「無位絹」「下々下紬」「下々綿(真綿)」などで、年貢の一部を大脳していたことがわかる」とある。
※16
江戸時代に活躍した浮世草子・人形浄瑠璃作者。出身地は明確になっていないが、大阪で活躍していた人物だと記録されている。『好色一代男』をはじめとする浮世草子の作者として知られる。
※17
井原西鶴と同じく江戸時代に活躍した人物。人形浄瑠璃や歌舞伎の脚本を書く劇作家。
当時の上方で実際に起きた心中事件などを脚本の題材とし、大衆人気を勝ち取った。代表作は『曾根崎心中』や『冥途の飛脚』。
※18
寛永9年に制度化された。実際に歩行頭が年番で採茶使をつとめるようになったのは、『徳川実紀』中の『有徳院殿御実紀』によると寛永10年からとなっている。
<参考文献、サイト>
都留市立図書館
https://www.lib.city.tsuru.yamanashi.jp/contents/history/another/gensi_set.htm
都留市史 地史・考古編 1986 都留市史編纂委員会
小林広和他 1982 「桂川支流域菅野川一杯窪遺跡で発見された旧石器とその火山灰」『日本第四紀学会講演要旨集』12
山梨県史 資料編1 原始・古代1 考古(遺跡)
積翠寺
https://kofu-tourism.com/spot/55
富士の国やまなし
https://www.yamanashi-kankou.jp/history/shingen/
恵林寺
武田神社
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